私が大学に入学した年まで久野さんは木村研で助手を務めていた。 実は久野さんは木村泉先生のお弟子さんでもあり、 大学から私が入学した年までずっと東工大に通っていたと思う。 ついでに書くと、久野さんの奥様もたしか木村研OBで、 私が学部4年の時に博士論文執筆の関係で木村先生のところまで来られていた。 久野さんはずっと西小山駅付近に住んでおり、お子さんは 大岡山にある東急病院(当時は大岡山駅直上ではなくて北側にあった)で 出産された。人生に必要なものをすべて自宅周辺で調達した。 正真正銘の地元民である。私も数ヶ月ほど大学近辺に住んでいたが、 赤ん坊の頃なのでその当時の記憶は全くない。
私が木村研に入ったのは久野さんが去ってから2年経った後で、 CLUマシン最後の世代がギリギリで残っていた時である。 当時学内のシステムを Sun3 から SONY の NEWS Station に置き換える話が進んでおり、 CLU の処理系を移植しなければならなかった。 当時は MIT 純正の処理系 clu と 木村先生の要望で日本語を使えるようにした処理系 nclu があったが、 いずれもオブジェクトファイルや実行形式を生成していた。 そのため、可搬性がいいとは言えなかった。 そこで実行形式ではなくて C のプログラムを生成するようにしようという話が持ち上がり、 clu2c が生まれたというわけだ。 本家の MIT では同じ頃に pclu という全く同じコンセプトの処理系が作られたが、 彼らと同じことを当時の木村研でも考えていたのだ。
当時の木村研は大きく分けて2つ(後に3つ)のグループに分かれていた。 とはいっても自民党の政策集団(いわゆる派閥)のような対立があったわけではなく、 あくまでも研究分野が違うというだけである。
一つは当時木村先生が研究していた打鍵データに関係する分野のグループで、 当時は Human Interface 系というような呼び方をしていた。 久野さんの記事に出てくる「マウスを足につける」というのは、 おそらくこのグループが行なっていた研究だ。 もっとも、打鍵データの解析自体を行なっていた人はいなかった。 木村先生の bit での連載記事「さなげ山通信」にも出てくる ACT* に関する研究を行なっていた人がいるなど、 事実上、独力で研究を行なっていた。
もう一つはコンピュータ系のグループで久野さんが立ち上げた CLU マシンは このグループが研究していた。 もっとも CLU マシンとは違う内容を研究していた人もいるので内容は雑多だった。 舞台の照明システムの研究をしていた人もいれば 自分でプログラミング言語を考案して処理系を作り上げた人もいる。 このグループは一応大野さんの管轄ということになっていたが、 大野さんの研究分野は久野さんとは全く違うので、 実際には大野さんからの指導はあまり受けておらず、 これまた独力で研究を行なっていた。
この2つのグループとは別に大野さんが立ち上げたのがネットワーク系のグループである。 大野さんは当時すでに WIDE に参加しており、 当時としては珍しくネットワーク関係の研究を行なっていた。 当時は今ほどネットワーク系の研究は盛んではなく、 オブジェクト指向が流行していた頃だったので ネットワーク系のグループは木村研の中では少数派だった。 正直言って、当時ネットワークが隆盛になるとは私は思っていなかった。 それゆえ私の世代までの参加者はなく、私のすぐ下の世代から立ち上がった。
以上の3つのグループに所属していなかった人が一名いる。 東大へ移った米澤明憲先生の研究室から移籍した N さんである。 彼はすぐに煙に巻こうとするので、たまに木村先生から「ケムマキ君」と呼ばれていた。 普段は東大の米澤研に顔を出して米澤先生の元で研究活動を行なっており、 こちらの輪講には参加していなかった。 東工大では米澤研の系統は彼を最後に途絶えていたが、 米澤研の助手だった柴山悦哉先生が戻ってきて研究室を立ち上げ、再興している。 私がM2の時に学部生だった二人の学生も木村先生が退官されてからは柴山研に移った。 確か、二人とも博士号をとったと思う。 余談だが、私が学部2年の時、柴山さんがプログラミングの演習を担当しており、 私は彼から Pascal, Common Lisp, Prolog を習った。
さて私が木村研に入った年は、 久野さんが「CLUとその仲間たち」で取り上げた人達が 皆修士号を取得して出て行った直後だった。 とはいうものの、久野さんの記事でも名前が挙がったFさん(NTTに入り、 現在は IPv6 関係などで活躍)と同学年だった S さん(後に東芝に入社し、 VOTEで一時的に有名になった)が HI 系で残っていたし、 学部やM1でCLUマシンをやっていた E さん(後にSONYに入社)、 Kさん(後にNTTに入社して OS の研究に従事し、現在は NILFS の研究などに従事)、 Jさん(後にNECに入社し、研究会では座長を務めたりしている)、 M1の牛嶋さんが残っていたので、CLUマシンの研究自体は続いていた。 こうしてみると結構優秀な人材が木村研にいたんだなあと思う。 皆いい方だった。Eさんが clu2c 開発のリーダーで、 プロシージャが返す複数の戻り値の機能や例外処理、イテレータなどを C で実装する方法は彼が考案した。 もっとも CLU の識別子を C の識別子へ変換する時の 名前の付け方は万全だったわけではなく、 Kさんにその欠陥を指摘されて直したこともあった。 そのKさんは学内システムの管理も担当していた。 なぜか K さんは熊吉と呼ばれており、 研究室には熊出没注意のポスターやステッカーが貼り付けられていた。 Kさんとは M1 の二人の方と一緒によく麻雀を打った。 私は卒論提出直後にこの3人と麻雀を打ち、 (Sさんを呆れさせた(打ちたかったのだからしょうがない)。 なお、Kさんの修論で CLU マシンが総括されて締めくくられた。 牛嶋さんも優秀な方で「ぎゅう教授」と呼ばれており、 Kさんから学内システムの管理を引き継いだ。 E さんからは clu2c 開発のリーダー役を引き継ぎ、 修士号取得後も学内に残った。 そして後に nclu で実装されていた日本語処理を clu2c で復活させた。 これには木村先生も御満悦だっただろう。 なにしろ、この機能を作ってほしいと言いだしたのは木村先生で、 これにより nclu が生まれたのだから。 私が学部3年の時に受けた演習で 木村先生はこっそりこの機能を教えてくれたのだが、 その時とてもうれしそうだったのをよく覚えている(もっとも、その時は!記法を教えてはくれなかった)。 なお、私が M2 の時に clu2c で日本語機能実装法についてのアイデアは ある程度固まっており、いわゆる半角カナの扱いをどうしようかと悩んでいた。 Jさんは clu2c ではなくて CLU のデバッガの開発を行なっていた。 彼の研究は私より一学年下の M 君が引き継いだ。 プロ野球に詳しくて「中日の都(裕次郎投手)は近藤(貞雄)監督の酷使で潰された」という話などで 私と盛り上がった。 彼は修論発表終了後(もしかしたら修論提出直後かもしれない)に夜行バスで関西へ行った。 実は当時お付き合いしていた女性が関西に住んでおられたのだ。 後に(確か社会人1年目くらいに)その人と結婚した。 私自身は彼らほど優秀とは言えなかったかもしれないが、 木村研の体質は私の性格によく合っていた。 彼らと一緒に研究したことは確実に私の財産となり、今の仕事にも生きていると思う。
書いているうちに長くなってしまい、 私自身のことや私より下の世代のことに触れることができなくなってしまったが、 機会があったら書いてみたいと思う。 もっとも私自身のことはあまり面白くないかもしれない。
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